バースデーランウェイ主催者 ナカハラユウカのはじまり
わたしは幼いころ 呪いにかかってしまったらしい
『何者かにならないと愛されないんだよ』
その呪いは自分を縛る まるで自分に合わない 硬く 冷たいガラスのくつを履いているようだった
それでもわたしは 傷だらけになった足で レールの上を歩くように はたから見たら器用に歩き続けた
心は苦しいと 叫んでいたのに
わたしらしくいられない…呪いから逃れたくて でも逃れられなかった
あの日が来るまで
ボーォン
夕焼けに染まった空に、鐘の深い、重い音が響きわたり、街に溢れる神社仏閣が夕日に照らされて茜色に染まっていく。
今も昔も変わらない、いつもの馴染みの風景。
私は京都駅から割と近い、五重の塔や東寺さんの近くで姉と兄、私の三人きょうだいの末っ子として育った。
姉兄と年がすごく離れていたわけではないけど、あまり一緒に遊んだ記憶はなく、幼い時の記憶は結構ごっそり抜けていて、よく覚えているのはよく髪が抜けていたこととすごく人見知りで人の目が気になるという記憶。
真面目で曲がった事ができない、100点満点のレールってこれだよねっていうのをキレイに歩きたいタイプだった。
小学生の時、いじめや仲間割れを目の当たりにして、それがいつ自分に回ってくるかわからない恐怖から、私はどんどん神経質になっていった。
成長とともに人見知りは、自分で明るくすることによって、それが板について普通になっていったが、人目を気にする性格は相変わらずだった。
姉は小さい頃からずっと絵が上手く、家族や親戚、いろんな人に褒められ自慢されていた。父と母の携帯電話の待ち受け画面はいつも姉の絵だった。
私はそんな姉に憧れて、姉と同じ工業高校のデザイン科を目指すことにした。
でも私が受験する1年前に、その学校のデザイン科がなくなってしまい、急に志望校の学科がなくなってしまった。それでも家から近かったし、高校は別に何かしたいから選ぶという感じでもないし、学校案内のパンフレットには建築科が一番デザインっぽく書かれていたので、私は姉と同じ学校の建築科に進学した。
高校は男子がすごく多く、からかうようなノリが頻繁だったので、私の神経質な気質をより加速させ、相手にどう思われたかとか、自分の発した一言で相手を傷つけたかなとか異常なまでに気にするようになり、一時期しんどくて学校に行けなくなった事もあった。
中高は、テニス部に入っていたが、高校の時は音楽をやっていて、ボーカルやシンガーソングライターなどいろんなオーディションを受けていた。
でも卒業したら働くというような、家庭的にもそんな感じだったので、特に大学に行ってもやりたいこともなかったし、早く働きたいと思っていた。
料理が好きだったので、直感的にやりたいなと思って色んなお店を食べ歩き、卒業後はイタリアンの料理人を目指し、希望のお店に就職した。パスタが好きでオシャレだからと単純な理由でイタリアンを選んだ。
オープンキッチンでお客さんと会話しながら…なんて夢を見ていた。