インクデザイン合同会社 代表社員 鈴木潤のはじまり
1980年代、茨城県日立市。
みなさんご存知の日立製作所のお膝元。
時は高度成長期。
町は急成長を遂げ、人口も増え、活気があって華やかだった。
当時、僕は両親と6つ下の妹の4人家族で団地に住んでいて、そこには父方の祖父が毎日のようにお土産を持って会いに来てくれていたらしい。
そのあと祖父母と一緒に暮らすようになってからも、色々世話を焼いてくれて可愛がってもらった。
僕の住む団地の裏には山があって、友達とはよく裏山や用水路で遊んだり、よくある田舎遊びをして過ごした。
小中の時は、ガンダムやロボットアニメや漫画、特にゲームにハマって、あるシリーズ物のゲームのエンディングが第一話の物語の始まりだったことに衝撃を受けて、こんな面白いものがあるのかとワクワクして、自分も何かモノを作れる人になりたいとゲームを作る人に憧れた。
高校は自分の学力と、まぁ悪くないかという感じでなんとなく隣町の高校に進学した。
部活は小学生の頃から高校までずっと剣道部で、父親が若い頃に剣道をやっていて、僕にもやらせたみたいな感じで、あんまり好きではなかったが、友達がやっているからとズルズル続けて最終的には2段の腕前になった。
高校の時は特に音楽にハマり、趣味で色々やってみたが、才能ないなと早々に諦めた。
卒業後は、田舎の若者がこぞって東京に憧れるように、僕も例にもれずテレビに映るキラキラした大都会に憧れて、“東京”と名のつく大学に進学した。とはいえ大学の所在地は埼玉だったが、東京に近く大都会には変わりないイメージで、都心の方に出たい、いくつか受けてここが受かったとか、ただそれだけであんまり何も考えていなかった。
専攻は人間教養学科人間関係。今思い出そうにも、正直よくわからない。
それもそのはず、入学後はワンダーフォーゲルという山登りの部活に入部し、山登りをしない時は、昼間にパチンコ、夜は麻雀、休日も遊び倒すようなゆかいな友人に囲まれて、日々ものすごく満喫した。
特に最初の頃は大学にほとんど行っていなかったので、1年を2回、2年を2回と他の人より多く大学生活を楽しんだ。友達もダブっている人がいたので、寂しさを感じることもなかった。
それでもちょっとモヤモヤする時期もあったりして、友達とお笑いをやろうと社長部長というコンビを組んで100連発のネタを目指して挑戦をはじめた。でもそう簡単にできるはずもなく、20ネタで切れて、1年ほどで解散した。
そんな大学生活を送るうち、僕は遅ればせながらようやく3年生になった。
卒業するにはゼミに入らないとならなかったが、人気のあるゼミは2年もダブっている僕が入れるはずもなかった。
やっと入れたゼミは誰でも入れる情報処理のゼミだった。情報にも処理することにも特に興味はなかったが、この出来事は僕を運命的な出会いに誘うことになった。