SainoMediaサイドストーリー (希以子)
久々の図書館という空間。
人の歩く音と、本がトントンと正される音、カタカタとパソコンで何かを入力する音。
―なんだか、いいなぁ。
希以子は学生時代、図書館に通ったことを思い出した。
図書館はいろんな知識が集まっていて、本の顔の表紙を見るだけで、どんな世界が待っているのか、とてもワクワクした。大学では、課題に追われ、そんなことを楽しむ余裕はなくなっていたが。
初めて手にするイギリス菓子の専門書は重々しく、見慣れない文字が暗号のように連なっていた。
イギリス菓子の世界は驚きと発見に満ち溢れていて、知らなかった自分が損をしていた気さえした。身近にあるのに知ろうとしなかった。でも知ることで、お菓子がさらに味わい深くなる。
現に、革工房で働いていた時も、革の個性を理解して貰えず、クレームになったこともあった。知らないということは、その魅力を潰すことになる。
そして自分も、専門外は何も知らない。
その上、小説を書く人物についても何も知らない。
希以子は知らない自分が、知らない人を書くことに改めて恐怖を感じた。
図書館を出ると、もう日が落ちかけていた。
秋の乾燥した冷たい風が、体を通り抜ける。
希以子は本を上限一杯借りたため、カバンはずっしり重くなっていた。
他人の人生の重みの分、持参したパソコンも重くなった気がした。
立ち止まって空を見上げると、昼と夜のはざまの空には、ぼんやりと月の形が見えていた。
―そういえばこんな空だったな。お店の最後の日も。
ふと、希以子は以前勤めていた革工房のお店が近いことに気づいた。
―どうなっているだろう。
夢のようにまだやっているんではないか。
そんなことはあるはずないと思いつつ、希以子は緊張しながらもお店に向かって歩き出した。
少しずつ、少しずつ、お店のあったビルが近づく。
ビルも、町並みも、何も変わらない。
ただ、そこにはお店はなかった。
ガランとした店内には何もなく、ただそこには静寂だけがあった。
窓には‘貸店舗’と大きく張り紙がされていた。
主人をなくした、空っぽな空間。
まるで私みたいだと希以子は思った。
もうそこにはないのに、思い出ばかりが胸にこみ上げる。
人生に今日も、あの夢のような日々も一度だけ。
一度だけが積み重なり、人生になる。続いていく自分の人生。
2度と戻らない日々。
希以子は大きく息を吐いた。
そして大きな歩幅で、力強く、歩き出した。
それから希以子は締め切りまで、他人の人生の重みを感じながら、必死にパソコンと向かい合った。インタビューの音源を聴きながら小さな言葉のかけらを集める。
本人の言い回しや言葉えらびはその人の言霊。
今回小説に出演する人の、過去の記事などを何年も遡って目を通し、日常の小さな出来事、好きなもの、言葉、大事にしているものを拾って、自分の心に納め、寄り添いながら言葉を紡いだ。言葉の宝物を受け取って、その人物を〝書く〟のではなく〝描い〟ていく。
どんな人にも読みやすく、まるで隣で話を聞くように。
語りかけるように、そして最後に希望が見えるように。
言葉というものは曖昧で、時にゆらゆら揺れて、時にそのままの意味を持たない。
心持ちによって、言葉にいろんな感情を抱く。
いくら心を尽くしても、届かない事もある。
でも、
でもそれでいい。
言い聞かせるように心に刻む。
そう、
きっとそれでいい。
みんな違って、当然だから。
違わないと、社会は回らない。
みんなの違いが、サービスを生み、雇用を生み、科学が、文化が発展する。
自分はただ、できるだけ描く人の言葉を、暖かい人間味ある言葉を紡ぐだけ。
続ける事。それがいつか実になり、誰かのお腹を満たすかもしれない。
文章を書きながら、希以子は悲しい場面には、心を痛めた。
楽しい場面は、自分の思いつく楽しいことを想像した。
希以子は、まるで人生の再構築みたいだと思った。
人生を1からおさらいする。
そこには自分も忘れてしまった、何かが隠れていることがある。
他人が他人を描く事の意味。それは、俯瞰な状態。
出演者は、他人が描くことによって、新たな自分に会えるかもしれない。
いつか、あの綿菓子みたいに笑うお菓子職人の女性が、自分を見失って、しんどくてお菓子作りができなくなった時、昔の自分に会えて、また、歩き出せたらいい。
この小説は、みんなへのエール。
自分はそんなドアを開けられる、カギのようになれたらいい。
ちょうど、名前もキイコだしね。
希以子は自分の名前に、初めて笑った。
今日も見上げると、空はキレイだった。
プカプカと雲が気持ちよさそうに浮かぶ。
刻一刻と変わる空の表情。
今だけの空。
他人を描くのは、曇ったり、濁ったり、時にはジリジリ焼かれて胸が痛くなる。
カンカン日照りだったり、優しくなれたり、気づかされたり。
どんな空も、やっぱり美しいし、どんな姿も愛おしい。
そして空はいつもどんな日があっても、続けていけばいつか、いつか、青空が広がる。
薄雲から光が射すように、そんな一筋の光のように誰かに届くといい。
希以子は少し眉をひそめながら、眩しい空を見つめた。