編集長 田中智崇のはじまり

父は脳に障害が残ったものの、少しずつ安定し始めた。

最初に父が気にしたのは、経営している会社のことだった。

父は30年、地道に会社を経営してきた。しかしながら経営を続けるのが困難なのは、経済的も身体的にも明らかだった。

「かいしゃ だけは のこして ほしい」

父が拙い言葉で、精一杯言った。

心が キシキシ 痛んだ。希望を叶えてあげられない現実。

取引先に説明と引き継ぎ、あちこち飛び回り、膨大な資料整理と、引っ越し準備に毎日クタクタになるまで作業した。

父のデスク周りは、まるでテトリスのように積み上げられていて、仕事を大事にする父らしい完全武装の要塞のようだった。

「几帳面なお父さんらしいね」

と久々 妻が笑って言った。

片付けを進めるたび、まるで父の歴史を紐解いていくようで、もう言葉がうまく発せない父の無言の伝言のようでもあった。

撤去には仕事を休み、1ヶ月半以上の膨大な時間と、多額のお金を要した。

貯金はゼロになり、借金をして工面した。

今日も5時の鐘が相変わらず鳴っていた。

世の中は今日も変わらず動いているのに、同じ作業をしている私達は世の中から置いてきぼりになっている気がしていた。

そんな中、金庫から一通の手紙が出てきた。

それは取引先の製造業の社長さんが20年前に父に送った最後の手紙だった。

手紙からは、製造業の苦悩が ひしひし と伝わってきた。

ITエンジニアやコンサルタントに長く携わってきた私は、以前から手に取れる物を作れる製造業さんに大きな憧れや尊敬の念を抱いていた。しかし、製造業とIT企業、ここには物凄く分厚い壁があった。

もっとお互い必要なのだから、壁を取り払って発展できないか。

ようやく会社に戻った私は、新規事業を製造業とする事に決めた。

日本の物作りを対象とした新規事業を考えるため、製造業の皆様の悩み事や困り事を聞いて回りはじめた。

「ITなんて、ちょちょっとやって、稼げるんでしょ?製造業の苦労なんて分からないでしょ だいたいIT企業なんて信用出来ない。」

そんな言葉を投げかけられる事が実は多く、まともに取り合ってもらえない日々が続いた。

目に見えるハードも、機械を動かすソフトもなかったら、今の世の中成り立たない。

もっとお互い必要なのだから、どうやったら壁を取り払って話を聞いてもらえるのか。

突破口を常に探していた時、製造業の〝緑川さん〟というダンディな男性をネットで見かけた。

この方だったら、話を聞いてくれるかもしれない。

なんの根拠もない。ただの直感だった。

私はすぐさま 横浜で行われる “緑川さん”の公演を予約した。