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私が私であるために (大学生 飯塚 帳さん)

そんな時だ。コロナ禍によってマスクをつけることが普通になった。むしろマスクをつけないことが悪と認識される世の中になった。

不謹慎極まりないことだが、私はこのコロナ禍において「一年中マスクをつけている変な人」から「一般人」になったのだ。ずっとマスクをつけている私に疑問を持つ人は誰もいない。理由を聞いてくる人ももちろんいない。

そこではた、と思った。

容姿を気にしなくていい今、私が私らしく在れる姿は何だろうか、と。

最初に、肩甲骨まであった長い髪をベリーショートの長さまで切った。幼い頃から通っていた美容室の美容師さんは切る時に何度も確認をしてきた。

「本当にいいの?こんなに長いのに」

けれど私の気持ちは決まっていて、「ばっさり切ってください」と、それだけを何度もお願いした。ようやく頭が軽くなり、鏡を見て心も軽くなった。私は自分の容姿が好きでは無いけれど、それと同じかそれ以上に「長髪である私」が嫌いだったのだと、この時初めて思い至った。鏡に映る短髪の自分は、私が思っているよりも嬉しそうに微笑んでいた。

「女だから少しでも女らしくしなくては」

そんな気持ちで嫌々着ていたスカートやワンピースは全て処分した。胸を盛れると噂の下着も捨てた。着たくない服を着る必要はないのだ。新しく体の線が見えにくいようなオーバーサイズのパーカーやTシャツを買った。胸や腰、腎部のラインは好きではない。日によってその気持ちの強さは様々だが、どうしても胸が気になる日は胸を潰す下着を着用するようになった。膨らみがない真っ平らな胸の方がTシャツを綺麗に着られるので、お洒落を楽しむ意味でも着用する時がある。

体型を気にせず自分の好きな服を着ること、当たり前のようで少し難しいそれは私に自分を好きになる自信をくれた。

ところで、私が高校生の時は短髪でボーイッシュな格好をしている生徒はもれなく体育会系だった。固定概念のように感じるかもしれないが、私の通っていた女子校では事実である。そのため生粋の文化系だった私が髪を短くすることや、所謂女子らしくない服を着ることには強い抵抗があった。「そんな格好をしているくせに運動音痴なの?」と揶揄されたくなかったのだ。今でもネットの海に目を向ければ、「女性らしくない女性」への偏見は強い。どうしてと問うだけならまだいい。時には「女性がその身体的特徴を武器にしないのは勿体ない」などという余計なお世話としか言い様のない言葉が散見される。

そう、余計なお世話なのだ。

人からどう見られようとどうでもいい。

私は自分らしく、私らしく生きたいだけ。

そこに名前をつけるならば、センシティブな言葉になるが、「クエスチョニング」や「Xジェンダー」になるのだろう。けれど性に対して無理にラベリングする必要は無いと私は思う。要は自分がどのように生きたいかだ。周囲の人から何を言われようと、私はただ自分らしく振る舞いたいと思うのだ。

話を戻すが、マスクによって自信を持ち始めた私の生活は少しずつ変化していった。

ベリーショートからツーブロックに髪型を変え、短髪を整えるために初めてヘアワックスを使うようになった。昔から好きだった香水ブランドのユニセックスに使える香水を買った。柑橘系とムスクが混ざった、私が1番好きな香りだ。その香りに似合うような人間になろうと心に決めている。

イヤリングではなくイヤーカフをするようになった。そもそも耳朶が大きいせいでイヤリングは頭が痛くなる。イヤーカフを買い、付けた時は耳に揺れるシルバーが何故か誇らしかった。

家族の反応はと言うと、少し微妙だった。