• HOME
  • 起業
  • 株式会社おとも 代表取締役 鈴木貴逹のはじまり

株式会社おとも 代表取締役 鈴木貴逹のはじまり

モノゴトの“はじまり”は

突然だったり 気がついたらはじまっていたり

僕のこの“はじまり”のタネは 生まれた時から もうそこにあった

色んなことが 人が 絡まって 繋がって

何十年も経って 僕はそのタネを蒔き 育てることになった

色んな経験を積んだ僕の畑に

多くの人のあったかい想いと共に

小さな芽が 力強く 天に向かって伸び始めた

天気のいいお散歩日和。

足の悪くなったおばあちゃんが、杖をついていつものように公園をお散歩。

公園では、作業員が脚立を使って、高い木の剪定作業をしている。

近くでは手の小さいストリートミュージシャンが、工夫してギターを演奏していた。

その前を買い物帰りの目の不自由な人が、白杖を持ちながら通り過ぎて行った。

街には色んな人が溢れている。

目が見えない。

この言葉は、何もできないのではないかと思われがちだ。

目が見えないのは不便であっても、何もできないわけではない。

目の代わりに、全身で、モノを、ヒトを、感じている。

モノの感触や風の香り、鳥の声。

僕たちが見落としている日常の小さな変化を敏感に感じとって、見る以外で日常を楽しんでいる。

人間は、ないところを上手く補う。

道具を使う、サービスを利用する。

それは健常者の僕たちだって同じこと。

母が視覚障がい者だと知ったのは、僕が小学校低学年の頃、両親の離婚の時に同時に告げられた。父の方針で、子供たちには、障害のことは伏せておこうということで、このタイミングになったようだ。

黄斑ジストロフィーという、視力がどんどん落ちていく病気。

以前から母は目が悪いという事は幼いながら知っていたが、自転車に乗るなど、普通の人と同じ生活をしていたので、特に気にしていなかった。

だから、離婚と障害という二つの現実は、幼い僕にとってもかなり衝撃的なことだった。

でも“障害”と告げられても、元々目が悪いのは知っていたから、衝撃を受けても僕たち兄弟にとっては、母の目が悪いことは今までと変わらない、普通のことだった。目が大きい、小さいみたいな個性のような感覚。

離婚後は、前の家とそう遠くないところに引っ越しをすることになった。

転校はなかったが、以前とは大分違う、トタンのような造りのお世辞にも綺麗とは言えないアパートに、マジか、こんな家になっちゃうんだと幼い僕は寂しくなった。

父は夜勤が多く、日常あまり会わなかったせいか、母と弟の3人家族になっても、親父いなくなっちゃったなーくらいの感じだった。

母は、資格を取るため専門学校に通い始め、家では文字を拡大して読書ができる、拡大音読器を使って、15インチくらいのブラウン管のテレビモニターに文字を2〜3文字ずつ映し出しながら勉強し、マッサージやあん摩、鍼灸師の資格を取り、働き出した。

視覚に障害があっても、裕福ではないけど、一般的なシングルマザーと変わらない生活だったと思う。

授業参観など、慣れない場所では移動が難しいとか、小さい文字が見えず、たまに驚く値段の高級肉を買ってきてしまうこととかはあったけど。

中学校ではバスケットの漫画に影響を受けて、小学校からやっていたバスケットボール部に入部して、毎日忙しい日々を送っていたが、引退後にはスポーツ部にありがちだが、めちゃくちゃ激太りしてしまった。

高校は、キレイでおしゃれな家に憧れて、設計や空間デザインを勉強しようと、工業科建築学科に入学した。

でも勉強のモチベーション維持が苦手だった僕は、卒業後は就職せずにニートになり、フリーターや派遣のバイトで生活費を稼いだ。

気がつくと、そんな日々でも変わらず、年末が近づいてきていた。

街にはキラキラしたイルミネーションが目立つようになっていた。