海苔バナ のり子さん(仮名)のはじまり
5月のあの日。天気は雨のち曇り。
いつも通り、職場に向かう道すがら母に電話をかける。
私が一人暮らしをしてから、母と電話するのが日課になっていた。
発信音がずっと鳴るが母は出ない。
あれ?でかけてるのかな?
今までも母が出なかったことは時々あった。
以前にあったことを思い出す。ある夏の暑い日のこと。
突然家にやってきたお友達とランチに出かけて何時間も電話に出なかったことがあった。
そんなことを知らない私は、熱中症で倒れているかもと心配になり父の職場に電話をかけて「おおごとにしやがって」とこっぴどく叱られたことがあったのだ。でもそれ以来、しばらく電話に出られない時は前もって事前にお知らせが来るようになっていたけど、その時は特に連絡もなかった。
一応確認のため父の職場に電話をかけると、午前上がりでもう帰ったとのことだった。そんな日は、父と母は仕事終わりに待ち合わせて一緒にお出かけすることがよくあった。
またかければいいか。
私はお店でランチの注文を終え、一息ついたところだった。
携帯電話がなる。
父からだ。
めったに父から電話なんてかかってきたことないのに…
一瞬心がゾワっとする。
「お父さん?」
心臓が高鳴る。
「お母さんが…」
一瞬呼吸を忘れる。手足が震え、涙が止まらなくなる。
私はすぐにお店の注文をキャンセルして一旦会社に戻り、事情を説明し早退して、急いでタクシーに飛び乗った。どんよりとした灰色の東京の街並みがすごい勢いで過ぎ去っていく。
父の電話の言葉を反復する。
『お母さんが倒れて…今病院。状態はよくわからないから、またかける』
手足はガクガク震えて、味わったことがないくらい心臓がバクバクしていた。ただ意識は少し冷静で。仕事に必要な連絡などしているうちに涙はいつの間にか止まっていた。
病院に到着し、落ち着いた自分と慌てる自分が分離したような放心した状態で病室に入ると部屋の隅に置かれたベッドに父がしがみつくように寄り添っていた。
ドクン
鼓動が一段と高くなる。
「来てくれたのか。お母さんが…」父は言葉を詰まらせた。
見たことのない母に一瞬びっくりしたけど、無意識に手を握る。
「お母さん…」
手は少し冷たいけど柔らかかった。
「お母さん…お母さん…」
何度も何度も呼びかける。
でも握り返してくれることはなかった。
起きるかもしれない奇跡を信じて、母の体を必死に必死にさする。
切に祈りながら。
でも母はピクリとも動かない。
ドラマでよく聞く高い音が耳に突き刺さる。
「おかあさん…」
目がまるで溺れたみたい。涙で何も見えなくなる。
「―おかあさん…」
「おかあさん…ありがとう!!」
誠意いっぱいの気持ちを込めて、私は母の耳に届くように精一杯叫んだ。
―もう、目を覚ますことはないー
どんでん返しの奇跡は起きないんだ…
そんなことあるのかな。だって朝はピンピンしてたのに。
なんの持病もなく、病気の方から逃げていきそうなほど“強い人”だったのに。
病名はくも膜下出血。
父が職場に向かった直後に倒れたようだった。ただ、出血箇所が悪く、この時に気づいても助からない状態だった。
いつか親の介護が必要になったら、Uターンするということは考えていた…でも…こんな突然。嘘って言ってっていう思いと、しっかりしなきゃ、でもそんなの無理だって気持ちと感情がいっぺんに押し寄せてきて。
これは現実なのか…父の背中をさすりながら呆然と霊柩車を待つ。
「お父さん、これから一人でどうしたらいいんだろう…」
父がポツリと呟いた。
「私が帰ってくるから大丈夫だよ」
明るかった母がいなくなって、このまま父一人にするわけには…と思ってそう言うと
「―お前の将来を邪魔したくない。お父さんのことは気にしなくていいよ」
父は力無く、でも娘に心配をかけまいと気を持ち直して言ってくれた。
私はグルグルいろんなことを考えたけど、もうどう考えていいかわからず。
とりあえず落ち着いたらゆっくり考えよう…
病院から霊柩車とタクシーで家に帰ると、救急車を見送ってくれた近所の方が心配してすぐ来てくれて「旦那さん、これから大変ね…」と父に声をかけると、「娘が帰ってきてくれるって言うから大丈夫ですよ」
あれ?さっきと違うとは思ったけど、少し明るい声でそう答える父を見て、私のUターンがその場で決定した。
正直、目を離して父まで後を追ったら…なんて最悪なことまで頭をよぎってしまい、母が亡くなったその日から体は実家にある状態になり、全ての仕事に“続けられない”旨を連絡した。
社会人として最悪な辞め方。迷惑もかけたし、無責任だって自覚している。
でも東京の仕事を続けられるとは到底思えなかった。メンタル的に、私は仕事のことを考える余裕もなかった。
なんの準備もなく逝った母。
家には前の日に作った牛肉の炒め物、干したままの洗濯物。
今にもドアが開いて、今にも名前を呼ばれそうな何ひとつ変わらない空間に、母だけがいなくなって。
何があっても私の味方でいてくれた母。
子供の頃から、母がいなくなったらどうしようなんて思っていた。
悲しさの波が何度も何度も心に押し寄せて、何度も何度も飲まれそうになる。
でもぼうっとできる暇もなく印鑑や保険にまつわるものを母しか把握していなかったので、まるで空き巣になったみたいな気分で父と私は家中大捜索。
家族に見られたくなかっただろうなっていう走り書きの日記のようなメモがたくさん出てきたりして。手が止まり、不意に涙が溢れる。
「泣いてる場合か」父が尻を叩く。母自身、多分こんなはずじゃなかった、こんな終わりを想像してなかったんだろうなと捜索しながら複雑な気持ちになった。
母が亡くなった次の日、ニャーニャーと外から鳴き声が聞こえてきた。
ご近所の猫、シロさんだ。
シロさんはなかなか人に懐かない。時々しか実家に帰らない私は、シロさんからしたら“見たことない人”。だから懐くはずもなく。だけど、ある日実家に帰ったら、母がシロさんを手懐けていた。近くに来ても、母の猫嫌いには変わりはないから触りはしなかったけど。
シロさんが母を呼んでるのかな?とドアを開けてみる。
私を見ても逃げずに見上げて「ニャーニャー」と渋い声でずっと鳴く。
家の中を覗いて母の姿を探す。
「母はもういないんだよ、ごめんね」
「ニャーニャー」
何かを訴えるようにまとわりついて、私が家の前に座り込むと、隣にちょこんと座って鳴くのをやめた。私の手が届く距離に絶対来ないシロさんが、私の体にピッと体を寄せて座った。じんわり優しい暖かさが伝わってくる。
撫でて大丈夫かなとシロさんに触れてみる。
初めはビクッとしながらも、シロさんは私の手を受け入れてくれた。
シロさんを撫でながらとめどなくジャアジャア涙が出て、泣きすぎてスッキリ。
猫は悲しいの周波数がわかるんだろうか。猫も涙を流してたっていう母の話をふと思い出す。