海苔バナ のり子さん(仮名)のはじまり
バレー部に所属はしていたが、なかなかの弱小部で。バイトに明け暮れた高校生活だった。
卒業後は早く働きたかったけど、父に「どこでもいいから進学してくれ」と言われ、以前から文章で褒められることが多かったので、編集者やライターになりたいと専門学校へ行くことにした。
でも学校の雰囲気はどちらかというと、東京に出て2年間遊ぼう的な意識の人が多く、私は教務の先生と仲良くなって、紹介された編集プロダクションでインターンとして働くことになった。
インターン初日から、いきなり1日20件の取材をカメラマンとやるという無茶振り。初めてのことばかりでなんだかわからないまま、帰ったら朝まで記事を書く。そんな日々が続いているうちに、私は電車のドアが閉まる瞬間に動悸や息切れが起きるようになり、しんどくて何度も電車から飛び降りた。後々わかったことだけど、私はパニック障害になっていた。
病名がわかってほっとしたところもあったけど、薬に頼るのはまずいぞという思いもあって、なるべく使わないように、なんとかうまくパニック障害と付き合いながら、いろんなところでインターンを続け、経験を積んでいった。
卒業制作では一冊の雑誌を作るのに、私は中学の頃から影響を受けていたヒッピーカルチャーをテーマに作ることにした。ファッションも音楽も好きだったけど、大量生産・大量消費の経済成長の疑問や、反戦、自然と共存する暮らし方とかマインドに共感していたし、海苔に興味を持つきっかけになったものなので。
父は海苔の産地の千葉で海苔問屋を営みながら、佐賀や福岡など有明海の海苔をメインに扱っていたので、ある日何気なくそのことを聞いてみたことがある。
「千葉には千葉の美味しさがあるけど、有明海は山を背おっているから海苔がうまいんだ」
「え、海苔は海で育つのに山?」
「山からの養分が川から流れ出る河口付近で採れる海苔は美味しいんだよ」
そういう大きな地球の自然の循環こそ、私がヒッピーカルチャーで興味があった部分で、
私が生まれた時から身近にある海苔こそがそれを体現していると思ったら、急に海苔への興味が湧いてきた。
しかも色々調べていくと、海苔漁師から見る海苔と海苔問屋から見る海苔も違うし、こんな苦労して海苔漁師さんは海苔を育てているんだと知れば知るほど奥が深く、どんどん海苔に魅了されていって、海苔屋をやりたいという気持ちが強くなっていった。子供の頃はなんの感情も湧かなかったし、海苔なんてもう嫌だとまで思っていたのに。
ときどき父にその気持ちを言ったことがあったけど、父の答えはいつも同じだった。
「ダメだ」その繰り返し。
海苔屋を継ぐお許しが出ないまま、卒業後は紙媒体の製作会社に就職した。それが今考えればなかなかのブラック会社で。編集者やライターになる予定が、就職したちょうど2000年頃はWeb制作の需要が高まってきていたので、新入社員である私がその担当になった。
Web制作やデザインを学びながらがむしゃらに働き、夜中まで仕事をした後は、社長と飲みながら色んな話を聞く毎日。
そのうち私が担当する仕事がいつの間にか多くなってきたことを知った社長は、まだ社会人3年も満たない私にサラッとこう言った。
「独立して仕事を受けてみたら」
「え?」
クビ?私、程よくクビ切られた?
私は一瞬、頭が真っ白になった。
思いがけない提案にびっくりしながらも、やってみようかと私の心は決まっていった。
以前から予算消化で発注される仕事にモヤモヤしていて、社長にも話していたことがあったし、だからと言って会社に所属している限り、自分から提案する裁量はなかったので、フリーになればそれができると思った。
そんなひょんなことからあっという間にフリーランスとしてWebデザイナー、ディレクションとして働くことになった。大きい会社で働くという経験もしてみたかったので週1〜2とかで派遣社員を兼業した時期もあった。
“海苔屋を継ぎたい”
私の気持ちはずっと冷めることはなかったので、父への説得も続けていた。
「海苔屋は女の仕事じゃない。海苔がわかるようになるには最低10年かかる。誰か連れてくれば10年で仕込んでやる」
そう言われて私は早速婚活を始めた。それはもうがむしゃらに。笑っちゃうぐらいひどい目にも散々遭った。やりがいを持って仕事をしている人に『海苔屋になってほしい』とはいいにくい。かといって、出会った時点で無職の人には心動かず。
「お父さん、今から10年はもう無理だ。海苔屋は閉める」
そうこうしているうち父からとうとう決定的な言葉を言われてしまった。
やっぱりその言葉はショックだったけど、以前から父は店を閉じて早く自由になりたいと思っていたのを知っていたので、閉じる準備は手伝うことにした。
一応会社の登記は残してもらったので正確には会社は“休眠”だけど、閉業と同時に私の婚活も終わった。
でも実家が海苔屋じゃなくなっても海苔への思いは褪せなかった。
海苔問屋という形態じゃなくてもいい、どんな形であれ海苔に関わりたい。
でも、父と同じ業界で活動するには、どうしても父の許可は得ないとやりずらい。
私はいつその時が来てもいいように、海苔の産地へ出向いて海苔師さんからお話を聞いたりインプットは続けていた。
父と取引のあった福岡の海苔屋さんへ行く時に、父から「お前も名刺ぐらい作らないとな」
と言われ、お!ついに!と思い、福岡から戻ってすぐ父に「名刺、作っていいの?」と聞くと「お父さんはそんなこと言ってない」とあっさりシラを切られ。
次の一手は…と考えて父が尊敬していた海苔屋が2社あって、その一社が求人を出していたので、週1のアルバイトで採用してもらい、父にそのことを報告すると意外な言葉が返ってきた。
「そんなにやりたいなら自分でやれば」
「え」
「でもせっかくきれいに静かに辞めた海苔屋、お前にグチャグチャにさせたくないから別の名前でやってくれ」
「わかった」
私は“海苔バナ”という屋号に決め、またシラを切られたらかなわないと、その日のうちに税務署に走り、個人事業主の屋号を変更した。
“海苔を売る”プロが海苔屋、“海苔を作る”プロが海苔師、私は“海苔を伝える”人になろう。
“海苔バナ”の“バナ”は“恋バナ”の“バナ”。
私は早速、場を持たずポップアップ的にイベントへ参加する形で活動を始めた。
海苔の魅力を知ってもらうためにBOOK APARTMENTというところで本棚を借りて海苔の本を並べたり、友人とおむすびのイベントをしたり。
“誰かを想ってむすぶ、おむすび、できたらそこに海苔も寄り添いたいです”
ブックイベントでは海苔への思いをしおりに込めた。
おむすびってそれぞれの人の中にある記憶や思い出に直結しているんだなぁって思う。
私はおむすびに大きな思い出はないけど、母の握るおむすびはガチガチにぎゅっと握られていた。
強い母らしい、母の想いがぎゅっと詰まったおにぎり…。
いつか…のことはもちろん考えていた。
でもこんな早くこんな日が来るなんて夢にも思わなかった。