マジシャン Mintoのはじまり

当時の仕事の内容は、ショーの司会、ダンス、パレード、ビデオジョッキー、インフォメーション業務をはじめショーの企画構成演出、衣装に小物作りなどなど。このショーのお姉さんはなんでもするお姉さんで、ポジションはオーディション制だった。研修を終え、私はすべてのオーディションに受かったものの、数回出演しただけでヘルニアになり休職することになった。

私は悔しくて悔しくて2日くらい落ち込んだ。足の痙攣は止まらないし、寝返りも打てないし…ブツブツと言いながらなかなか気分の上がらない娘に母の言葉は強烈だった。

「うるさいんだけど、やめてくれない」

なんとも強い母の一発だった。でも愛のあるあったかい一撃。

この超悔しいっ!て感じた時って分岐点だと思う。そのままふて寝しちゃったり、なんかでごまかしちゃったら、“ただの悔しいと感じた出来事”で終わっちゃうし。

その悔しさをエネルギーに変えて何かを起こせたら、“あの時のあれがあったから、今笑える!!”に、なるだろうし。私は“ただの悔しい”は絶対いやなので、分岐点のたびに、焦るし、もがきたい。休職中もムダにしたくないっ。私は何ができるかと色々考えて、一日の計画表を作って、パソコンでブラインドタッチを練習したり、よりパワーアップして復帰しようとできることにチャレンジした。

1ヶ月後、なんとかようやく歩けるようになって、復帰後の仕事は座ってできる電話対応からリスタートとなった。私は電話一本出るのも嬉しくてありがたくて…。電話は声だけの仕事。私は電話を取る最高の人になろうと心に誓った。それから少しずつ立ってできる仕事へ幅が広がっていき、仕事後は毎日ジムに通って腹筋背筋を鍛えた。そんなこんなで2年経ち、ようやくダンスができるまでに回復し、目標だったセンターで踊ることができるようになって、インストラクターや演出にも携われるようになった。次はどんなショーにするか、みんなで知恵を出し合ったり、ダンスの振り付けをしたり…毎日夜遅くまでレッスンルームで練習した。どんなにしんどいことがあっても、天使のような子供達のはじけまくる笑顔を見ると何もかも吹っ飛んでしまう。笑顔こそ魔法なのかもしれない。

一つ一つの仕事に改めてベストを尽くすように丁寧にすること、今の私があるのも、この時代の経験と影響を与えてくれた人の存在もあったからだと思っている。その中の一人は私たちがやっていたショーのお姉さんを作った方で、出会った時は有名な放送作家さんでショーの演出のため入ってくださっていた。でももちろん初めから有名な放送作家さんではなく、最初はどこかの電話係で、その仕事で相手先の電話番号を全て覚えて円滑に進むようにしたり、舞台照明をやる事になった時も全ての照明の転換などを覚えたりして周りに一目置かれるようになり、少しずつのぼりつめていった方だった。

『普通にやってたんじゃあダメなんだよ。与えられた仕事の中でトップオブトップ、ベストオブベスト、どこまでできるか挑戦するくらいまでやれば世界が開けてくるんだよね』

この言葉は何年経っても色褪せない。私の奥底で輝き続ける言葉。

私はショーのお姉さんとして5年働いたのち退社して、失業保険を使いながら、ちょっと一回ゆっくりしてやりたいことをちゃんと探そうとパソコンなどを勉強した。