ファミリーヒストリー記録社 代表 吉田富美子のはじまり
そんな中、見たこともない、面白いものが見たくて、若いうちにインドに行っておかなきゃと思い立って、直感的に一人インド旅行に行くことにした。
私は英語が苦手だったので、現地で知り合った日本人のバックパッカーと行動していたが、そこにいた日本人はみんな変わり者ばかりだった。日本ではすごい人だったんだろうけど、人生をドロップアウトした人や、びっくりするような理由できている人もいたり。
私はスケッチブックを持って大きな橋をスケッチしたり、インドの風景など色々な絵を描いて楽しんだ。
貧乏旅行なので、劣悪なホテルに男女混ざって雑魚寝したり、現地の人の日本では考えられない習慣を目の当たりにしたり、多くの面白い経験ができて、いろんな人がいるんだなぁと幅の広がった旅だった。
インドからタイに、そしてネパール、お土産に宝石の原石を買って23日の濃厚な旅を終え、帰国の途に着いた。
その後、宝石の原石は石のままだと二束三文にしかならないから、加工するというのでシルク印刷の会社に預けていたが、ある日突然夜逃げしてしまった。
自分の被害としては、原石はそんな高いものではなかったが、帰国後も今思えば面白い体験をすることになってしまった。
私は会社の内部のことには関わっていなかったが、役員になっていたため、裁判所に呼ばれ、取り調べを受けることになった。
ひんやりとする細長い机が並ぶ部屋に通され、きしむ椅子に座ってふと机に目をやると、そこには強烈な刑事の悪口が書かれていて流石にびっくりした。
勉強にアルバイト、たまに裁判所という盛りだくさんな、なかなかはっちゃけた大学生活。
ふと気づくといつの間にか就活する時期になっていた。
ただ、就活はその当時も簡単ではなく、農学部の半分くらいはIT関係に就職していて、私はちょっと変わった仕事がしたいなと文系チックの会社を含め様々な会社を50社くらい受けた。とはいえ特別何かしたいとか思い入れがあるわけではなく、とにかく受かることが先決でその中で受かった食品加工会社に入社することになった。
就職が決まる前は、私にこんな経歴があるから、興信所の人が聞き込みに来るなど、ドキドキする出来事もあった。
女子寮に来た時には「立派な先輩ですよ」と後輩が言ってくれたおかげで、入社は問題なくすることができた。
会社に入ってからも、裁判所から呼ばれることもあったが、役員だった当時は学生だったため、情状酌量の余地ありと、解放されることになった。
入社した会社は結構自由にやらせてくれて、加工食品の研究や特許、研究論文の制作、商品開発などに携わることになった。
商品開発では日本で作れない場合、外国で材料を現地調達して、現地の工場に行き、同じ作業着を着て、「どこから来たの」なんて話しながら異国の人と一緒に工場のラインで作業したりした。
こうやって、自分の考えたものを作るのに見知らぬ何百人もの人が手を動かし、こういう人たちに商品は支えられているんだと実感してすごく感動した。
多くの人たちが関わって作られていく一つの商品。
自分の考えた商品が、スーパーなどの店頭に並ぶととても嬉しかった。
でも売り上げが悪くなると開発者にも関わらず、「売れないのはお前たちのせいだ」と上から言われ、マネキンとして売り場に立ったりした。正直悔しい思いでいっぱいになったが、大学時代のマネキンのアルバイト経験が役に立ち、根性で売って、週間売り上げ1位になったこともあった。
忙しくも充実した、でもしんどい日々だった。
今までない全く新しいものを出すというのが、自分に課せられた命題。
ゼロから生み出すこの仕事にやりがいも感じてはいたが、40代後半になってくるとそろそろ潮時ではないかと頭をよぎるようになった。本当に難しい命題に悩む日々。周りの上司を見ると、あぁこういう風に歳とるのかぁと複雑に思ったり。
元々起業したいと思っていて、50歳を前に、その後のサラリーマン人生、これで良いのかと自分に問いかけた。
定年まで会社員でいて後悔しないか…
でも起業といってもなにで起業しようか…
私の得意なことってなんだろう…
そういえば、上司や社長は私にいろんな話をしてくれて、聞いていると喜んでくれていた。
聞き役となる経験を重ねていくと、話しているうちに思いもよらない記憶を呼び覚ましたり引き出すことができ、話し手が癒されていくことに気がついた。
多くの人に喜ばれるサービスで“聞く”ということをビジネスにできないかな。
“起業=新しい仕事を作る”それはつまり新しい雇用を生む事。
これまでになかったものをビジネスにしよう。
私は1つの答えを導き出した。