merleオーナーシェフ 山中学のはじまり
あの日、
あの春の日、
自分達は、おにぎりみたいに同じ制服を着て、いまいちピシッとしないネクタイを締め、どんな出会いがあるのか、緊張と期待に胸膨らませ、その場所に向かっていた。
道の角の警察博物館の近くにはピーポくんが立っていた。
ドキドキはしていたが、まだどうにか周りを見る余裕はあった。
帰りのことはよく覚えていない。
その日出会った衝撃的なもの以外、霞んで何も思い出せない。
今でもそれだけが鮮明に思い出される。
舌の記憶。
それだけで自分を突き動かすには十分だった。
お肉の切り始め、まな板の端で、トントンっと包丁で調子をとる。
リズムをとってから、肉に包丁を入れる。
スゥッ
小さい頃、父のこの姿が何気に好きだった。
自分の実家は気づいた時には精肉店を営んでいて、いつの間にかお店の手伝いをしていた。
兄も姉も年が離れていたため、もっぱら自分の遊び場は、父の作業場だった。
お店では、コロッケや餃子などのお惣菜も販売していて、調理の時、父からは色んな事を細かく教わった。
特に餃子については何度も。父は幼い自分にも包ませてくれたが、うまく出来たものがあっても、もちろん決して商品にならず、子供心ちょっとショックだった。
オヤツはポテトチップスではなく、餃子の皮を揚げて、塩を振ったものがよく出てきた。
遊び場が作業場だったためか、食にはやたら興味があった。
買い物に母と行った時、幼いながら、お菓子ではなく、生クリームをせがんだ。
母は買ってくれたが、開けてみたらただの液体で大泣きした。自分は、開けたらフワフワのホイップクリームが入っていると思ったのだ。生クリームは泡だてないとホイップクリームにならないのに。
小学校に上がる頃には、好きな食べ物がいっぱいになっていた。
自己紹介のプロフィールの“すきなたべもの”の欄いっぱいに書き込んだのは自分だけだった。
将来は勝手に実家の精肉店を継ぐつもりだった。
でも、中学生になり、あの場所で、精肉店で商売していくのは大変だなと感じ始めていた。夢はいつしか、飲食店経営になっていった。
そのため、高校では商業科のある高校を受験するつもりで説明会に参加した。
たまたまなのかなんなのか、説明会には、なんだかすごいツワモノの風体の人がひしめいていた。
足を踏み入れた時、正直、この人たち大丈夫かな、、この人達と一緒にやれないかもと瞬時に悟った。自分はその高校を受験するのをやめた。
両親は特に反対することもせず、見守っていたが、普通科にいって、普通に大学行って、普通に仕事に就けばいいと思っていたようで、自分は普通科の高校に入学した。
それでも、食に対する探究心は消えず、飲食店のキッチンでアルバイトを始めた。
バイトで貯めたお金は、その当時はまっていたパスタの研究に使ったりした。
両親は家業のお店で共働きのため、必然的に自分のお弁当は揚げ物系の茶色の弁当だった。
隣の芝生は青いというが、本当に友達の弁当の緑が欲しくて、友達の弁当の付け合わせのパセリと揚げ物を度々交換した。
自分の根底には 美味しいものへの憧れ が常にあった。
高校を卒業した後は、やはり料理をやりたいと、調理の専門学校に入学した。
専門学校では、1年目は全てのジャンルの料理を幅広く学び、2年になると専門を決めてそれを学ぶシステムだった。
自分はその頃もパスタが好きだったので、2年になったら、ぼんやりイタリアンを専攻しようと考えていた。
友達とは、勉強がてら色んなお店を食べ歩いた。
その中で、日本のフランス料理を牽引してきた、有名高級店に友達4人で行くことになった。ディナーはもちろん手が出ないが、ランチなら4〜5千円ほどで体験できる。なけなしのお金を持って予約した。
専門学校にはスーツのような制服があり、みんなお揃いの服装で集合した。
お店はさすが高級店、重厚感のある門構え。
シックな内装。
黒服のビシッとしたスタッフが案内してくれる。
明らかに同じ服を着ている自分達はかなり浮いているようだった。
「どこかの学校の学生さんですか?」
こういうことはよくあるようで、お店の人が声をかけてきてくれた。
「はい」
「勉強して行ってくださいね」
コースはみんな別々の、予約したコースより良いものを出してくれた。
自分の前には、前菜のホワイトアスパラのオランデーズソースが置かれた。
フランスではホワイトアスパラを使うことが多く、春を待ちわびる食材としてよく用いられる。グリーンアスパラよりアクがあり、繊維が多いが、丁寧に茹でられたホワイトアスパラは甘く、繊細な風味で、卵黄を使った濃厚なオランデーズソースによく合う。
さすが一流店。
前菜にもこれから出てくる料理のワクワク感を醸し出している。
みんなでお皿を回して、勉強しあった。
次にメイン 舌平目のブレゼ ソースアルベール
舌平目をブレゼというフランス料理ならではの、蒸しながら煮るという方法で調理し、アルベールという古典のソースが添えられた料理。
拙いナイフとフォークで口に運ぶ。
うわぁっ
口に、舌に未体験の美味しさが広がった。
これは、、
今までに食べた事がない。
あまりにも、あまりにも美味しすぎて。
舌が喜ぶとかそんなもんじゃない。
そうだ、頭を殴られたような、、
もっと変な言い方だけどなんだか殺られたみたいな。
なんだかものすごい、ものすごい衝撃だった。
あの時、細かいことはよく分からなかったが、ブレゼによって、舌平目が本当にふっくら風味豊かに仕上がっていて、シャンピニョン(キノコの一種)とエシャロット(玉ねぎの一種)に、多くの酒を加えて煮詰めたものを核に、魚の出汁とフォン・ド・ヴォーのコク強い香りがプラスされ、ガツンとくるソースに仕上がっていた。
そのあとのデザートは、3段くらいのワゴンに焼き菓子や生菓子、アイスなどたくさんの種類から好きなだけ選ばせてくれた。
自分達は食べられるだけ食べて、料理人やパティシエの凄さを痛感した。
しかも学生だと知ったスタッフの方が、厨房まで覗かせてくれた。
終始緊張しかなく、記憶がうろ覚えだったが、こんな世界があるんだ!
本当に夢のような体験に興奮した。
帰りは舌平目のソースが忘れられなくて、フラフラと店を出た。
自分は専攻をフランス料理に決めた。